『春秋左氏伝』隠公元年4〜鄭公弟による反乱とその顛末

 隠公元年の和訳の4回目。原文、和訳の段落頭にある数字は各々が対応していることを示す。
 今回からは原文の引用元サイトの段落ごとに、内容解説と疑問点を統合した上で注釈とし、原文、和訳、注釈を続けて書くことにする。引用元は「中国哲学書電子化計画」*1

 

 

 

 

以下対応経文は「夏、五月、鄭伯が鄢で段に勝った。」

 

<第一段落>

・原文
1祭仲曰:「都城過百雉,國之害也,先王之制:大都不過參國之一;中,五之一;小,九之一。今京不度,非制也,君將不堪。」公曰:「姜氏欲之,焉辟害?」對曰:「姜氏何厭之有!不如早為之所,無使滋蔓。蔓,難圖也。蔓草猶不可除,況君之寵弟乎!」公曰:「多行不義,必自斃,子姑待之。」

・和訳
1祭仲が言った。「都城というのは百雉を過ぎてしまうと国都にとってわざわいです。先王の制度では、大きい都市は国都の3分の1の大きさを越さず、中くらいのそれは5分の1、小さいそれは9分の1の大きさを過ぎないものです。さて京城は大きさは測りきれないほど、これは先王の制度ではありません。わがきみ、そのうち許容できない事態になりますよ。」荘公はいった。「母の姜氏が弟に京城を与えるよう願ったのだ。どうしてこの害を防げるだろうか?(防げなくても仕方がない)」祭仲はこれに対して言った。「姜氏がどうして満足することがありましょうか!早めにふさわしい処置をしたほうが良いでしょう。ますますはびこらせてるようなことにしてはいけません。つるは繁茂すれば制御し難いものです。蔓草ですら除去できないのに、ましてや愛する弟君をなおさらそんなことはできません。」荘公はいった。「道義に反した行いが多ければ、必ず自滅する。しばらく待て。」」

・注釈
 祭仲とは?・・・鄭の大夫(高官)。
 雉(ち)とは?・・・城壁の大きさの単位。高さ一丈。長さ三丈。一丈は約2.25メートル。ところで「都城過百雉」とある「百雉」は城壁の長さであるが、周囲全部の長さなのか?それとも一辺の長さなのか?
 姜氏とは?・・・荘公の母親の武姜のこと。「姜」は前回書いたとおり、実家の姓。姓+氏、で女性の名を表す形式はよく出てくる。
 「不如早為之所」の「所」とは?・・・「所」字は「処置」という意味があるらしい。「之」は多分荘公の弟が勢力を伸ばしている状況のこと。

<第二段落>

・原文
2既而大叔命西鄙、北鄙貳於己。公子呂曰:「國不堪貳,君將若之何?欲與大叔,臣請事之;若弗與,則請除之,無生民心。」公曰:「無庸,將自及。」大叔又收貳以為己邑,至于廩延。子封曰:「可矣,厚將得眾。」公曰:「不義不暱,厚將崩。」

・和訳
2大叔は西の辺境諸都市と北の辺境諸都市に命じて自身の支配下においた。公子の呂(りょ)がいった。「国都はこれ以上の都市が背けばこの国はたえられません。わがきみはこの事態をどのようになさるおつもりですか?大叔に与えようとするのならば、わたくしはかれに仕えさせていただきます。もし与えないのであれば、かれを排除してください。民衆に叛意を抱かせないでください。」荘公はいった。「その必要はない。そのうち彼自身に(報いが)返ってくるだろう。」大叔はさらに更に多くの都市を支配下におき自分のものとし、ついに廩延(りんえん)に至った。子封(しほう)がいった。「もう攻撃していいでしょう。かれはますます多くの土地を得てしまいます。」荘公はいった。「不義ならば信頼されまい。そのうち崩壊するだろう」

・注釈
 貳について・・・「弐」のことであり、「二」を意味するがここでは「二心」の意味で荘公に忠誠を誓うべきところ、弟の大叔に心を寄せることを指す。「大叔命西鄙、北鄙貳於己」の「弐」はこの解釈で良さそう。公子呂のセリフの「弐」もこれで良い気がするが『左氏会箋』ではこの「貳」は「多い」の意味だそうな。よくわからん。一方、小倉訳では同じところを「二つに分かれること」という意味で解釈している。やっぱりよくわからん。

<第三段落>

・原文
3大叔完聚,繕甲兵,具卒乘,將襲鄭。夫人將啟之。公聞其期,曰:「可矣。」命子封帥車二百乘以伐京。京叛大叔段,段入于鄢,公伐諸鄢。五月辛丑,大叔出奔共。書曰:「鄭伯克段于鄢。」段不弟,故不言弟。如二君,故曰克。稱鄭伯,譏失教也。謂之鄭志,不言出奔,難之也。

・和訳
3大叔は完全に軍勢をそろえ、鎧と武器を修繕し、兵卒と戦車をそろえ、鄭の国都を襲撃しようとした。姜氏は大叔の軍勢を先導しようとした。荘公は襲撃の日取りを知ると、「攻撃してよい。」といい、子封に命じて戦車二百乗を率いさせて京城を伐たせた。京城のひとびとは大叔段にそむき、段は鄢(えん)に入り逃げた。荘公は大叔を鄢で伐った。五月辛丑の日、大叔は共に出奔した。『春秋』に「鄭伯が鄢で段に勝った。」とあるのは、段が弟らしからぬ振る舞いをしたため、弟と書かなかったからである。二人の君主があるかのごとき分裂状態であったので、「勝った」と書いたのである。(兄と書かず)鄭伯と称しているのは、彼が弟を教え導けなかったことを非難しているのである。この筆法を「鄭志」という。「出奔」と(『春秋』に)書いてないのは、(兄の鄭伯にも責任があるので)書くのをはばかったからである。

・注釈
 「大叔完聚」について・・・『左氏会箋』によると城郭「完城郭、聚人民」という意味とある。この「聚」とは食糧を集めて軍糧とすることらしい。小倉訳もそれを踏襲している。自分は「完」を「完全に」と「聚」の修飾語かな、と思いそう訳したが間違ってるかも(「かも」でなく「違いない」)。
 鄢(えん)について・・・京の北西にある町。
 共について・・・鄭から北に離れた都市。ここまで舞台は黄河の南であったが、共は黄河を北に越えたところにある。西周の厲王が反乱によって国都を出奔した際、代わりに周の政治を取り仕切った「共伯和」という人物がいた。『左氏会箋』によると共は共伯和の領地だったらしい。
 「書曰〜」について・・・この箇所の後半部分は経文の解説である。ここに至るまでの説話が長くて、『春秋左氏伝』が注釈書であることを忘れますな。
  


 <第四段落>

 ・原文
4遂寘姜氏于城潁(じょうえい),而誓之曰:「不及黃泉,無相見也!」既而悔之。

・和訳
4そうしてついに姜氏を城潁に留め置いた。そして誓って言った。「黄泉へ行かない限り、母と互いにまみえることはない!」だがまもなくこのことを後悔した。

・注釈
「城潁」について・・・鄭の国都からみて南に離れたところにある都市。潁水という淮河の支流のほとりにある。
 


<第五段落>

・原文
5潁考叔為潁谷封人,聞之,有獻於公。公賜之食。食舍肉,公問之,對曰:「小人有母,皆嘗小人之食矣,未嘗君之羹。請以遺之。」公曰:「爾有母遺,繄我獨無!」潁考叔曰:「敢問何謂也?」公語之故,且告之悔,對曰:「君何患焉?若闕地及泉,隧而相見,其誰曰不然?」公從之。公入而賦:「大隧之中,其樂也融融。」姜出而賦:「大隧之外,其樂也洩洩。」遂為母子如初。

・和訳
5潁考叔(えいこうしゅく)は潁谷(えいこく)の国境警備の役人である。荘公が後悔していることを耳に入れると、公に献上品を持ってきた。荘公は彼に食事をたまわった。潁考叔は食べながら肉を除いている。荘公は彼に問いただした。潁考叔はおこたえして言うには、「わたくしには母親がおりますが、食事はすべてわたくしの用意したものをとっております。しかし、わがきみからのあつものは頂いたことがありません。そこでこれを母へ持って帰らせていただきたいのです。」荘公はいった。「そなたには贈り物をする母がいる。ああ、わたしにはいないのだ!」潁考叔が言った。「それはどういうことでしょう?聞かせていただけますか?」荘公は彼に理由を語った。さらに後悔しているとも言った。潁考叔はお答えして言うよう、「わがきみ、何を思い悩むことがありましょう?もし地面をほって地下水にまで到達させ、そこに通路を作って母君とお会いすれば、誰が誓いにたがうといいましょうか?」荘公はこの提案に従った。荘公は通路に入りうたった。「大きな道の中、なんと心穏やかで楽しいことか。」母の姜氏も通路から出てからうたった。「大きな道の外、なんと心は伸びやかで楽しいことか。」そうして母子関係はもとに戻った。

・注釈
 「潁谷」について・・・先述の潁水の上流地域にある。荘公の母親が閉じ込められた城潁からさほど離れていないらしい。
 「有獻於公」について・・・この「獻」は新字体の「献」の意味。わたしとしては「献上品を持ってきた」の訳でいいと思うが小倉訳だと。『左氏会箋』には詳しいことが書いてないし、謎。
 地下水が出るまで地面をほったことについて・・・先述の通り城潁は河川のほとりにあるので水脈に行き着きやすかったから出たアイディアなのかもしれないと推測したりする。

<第六段落>

・原文
6君子曰:「潁考叔純孝也,愛其母,施及莊公。《詩》曰:『孝子不匱,永錫爾類。』其是之謂乎!」

・和訳
君子は言う。「潁考叔はまことの孝行者である。自分の母を愛し、その愛を荘公にまで及ぼした。『詩経』にある。『孝行者は孤独になることはない。友が現れ続けるのだから。』この言葉はこのことをいうのだろうか!」

・注釈
『孝子不匱,永錫爾類。』について『詩経』の「大雅」にある「既醉」という詩からの引用。訳がカクヨムに転がってたのであくまで参考程度にどうぞ*2。酒宴の場で国家と子孫の繁栄を祝うものらしい。 

 

主な参考文献
『漢文の読み方』(宮本徹、松江崇編著、放送大学教育振興会、2019年)
『新漢語林第二版』(大修館書店、2011年)
『春秋左氏伝』(小倉芳彦訳、岩波文庫、全3冊)
『左氏会箋』(竹添進一郎)